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日付が変わるころ無事家族と再会して一先ず寝ようとそれぞれ車に乗った。
 
明けて12日朝日で目覚める。しかし異変が。
 
おかしい、左目、開かない。
 
昨夜から急に目が痒くてなんとか寝なきゃと眠りながら無意識で目をこすっているのが分かるくらいなんだか痒かった。
 
目が痛くて開かないなんて初めて、これじゃなにも出来ない。無理やりあけてみてみたら、粘膜でが白目をおおってしまってる。だめだこりゃ。
 
そんな時に役立ったのがツイッター。ホント、ツイッターのおかげでどうしたらいいかアドバイスをもらってなんとかなった。遠いイギリスから近祐次郎先生本当にありがとうございました。先生のおかげで本当に助かった。
 
目が痛くて開かない。
 
大した事ない。そう思う人も居るかもしれない。
 
でも想像してみて、大地震がおきて、電気もガスも水道も出なくて、色んなものが崩壊して、不安でそんな中痛くて痒くて目が開かない。
 
だからホントにアドバイスをもらった時はほっとしたし、ありがたかった。
 
目がなんとか復活して、食べ物を家から持ち出したり、庭の作業場にある薪ストーブに木をくべて、冷凍してあった餅を焼いたり作ってあったカレーを温めたり、友達の安否確認にチャリで食べ物を運んだりした。
 
相変わらず水も電気もガスも出ないので、とにかく水を求めてまず弟と仲間達が小学校へ。大分並んで少しもらえた様子。よかった。
 
次の日弟中部支所では朝から並んで午後過ぎてももらえず、一先ず残り少ないガソリンを大切に使いながら、弟を迎えに行って、父と私と三人で山に水を汲みに行った。
 
いつもなら澄んでいてきれいな水だけど、地震の影響か、濁っていて飲み水には出来そうになかった。生活用水用に水を汲んで、友達から教えてもらった、奇跡的に水がちょろちょろでるという公園へ。
 
すでに人が並んでいる。父と私でトイレに並んで(トイレから水がすこーし出てた)弟は水のみ場へ並ぶ。
 
なんせチョロチョロしか出てないから(ありがたいけど)勿論時間がかかった。
 
でも出るだけありがたい。後で聞いたら日にちは聞いてないけど、中部支所に並んだ人、朝の10時30から7時半まで並んでも水もらえなかったって。9時間だよ9時間。並んでるからトイレにもいけず飲まず食わずで、挙句の果てに水もらえなかったって。
 
上の写真は13日の写真。一つ前のブログの写真にはディズニーランドもびっくりするような列写真には写しきれてないけど、街は水を求めてきた人々の車で溢れてて、こんなに人が並んでるのに給水車は小さなトラック一台・・・
 
これじゃ足りるわけない。誰がみてもわかる。夕暮れになって中部支所行ってみたら前方から自衛隊災害派遣車両が!!!
 
救世主のヒーローみたいだった。
 
よかったこれで少しはましだ。
 
一人500ミリリットルでも貰えますように。
 
とはいえ並んでる人全員に行き届くかは分かりませんが、とりあえず。
 
そして目まぐるしく一日が過ぎ、明るいうちに家の中を片付け、家具をガムテープなどで目張りをし、崩壊しそうなものは安全な場所に。飛び散った調味料や砕け散ったガラス、掃除機も使えないので手で慎重に片付けていった。
 
電気がこない間冷凍庫の中身が溶けないか心配だったけど、あの頃は寒かったから、意外と大丈夫だった。
 
その間車から見れるテレビだけが頼りだった。
 
車で寝たのは2日間余震も酷かったからね、夜中なんど飛び出したか!
 
で、3日目からは一階の奥座敷で皆で就寝。逃げる場所を確保して、靴をそこにおいて、靴下はいて寒かったからダウンを3枚重ねてきて(それくらい寒かった)余震で目覚めながらも布団で寝た。
 
 
4日目まだまだ強い余震の続く中、東京の親戚からおばーちゃんを迎えに行ってくれないかと電話がきた。電車も動かないし、余震や自分達のことでいっぱいいっぱいだったけど、ガソリンを他の車から移してもらってなんとかそのおばーちゃんを迎えに行った。その間10分で着くところ1時間半もかかったのは、ガソリン渋滞のせいだとわかった。道が一本しかないから、しかたない。ついでに入れられるならとがぞりんを入れて、おばあさん?を迎えに行った。元気そうで安心した。
 
一つ悲しかった事は、遠い親戚のおばさんから電話があった時、施設の人が預かってくれたらいいのに!って怒っていたこと。それが悲しかった。
 
施設の人だって被災していて、家に帰って家族と居たいだろうに、一生懸命働いてくれている。感謝されても、非難されるようなことは何一つしてない。
それがとても悲しかった。あぁ外の人なんだなって思った。
 
親戚のおばーちゃんも無事迎えに行って安全確保して、家族皆でその夜はひと段落していた。夜は蝋燭と、薪ストーブと、ラジオをずっと聴いていた。
 
その夜ずっと我慢していたけど、頑張ったご褒美に顔を水で洗った。4日間化粧も落としてなかったので、山水で洗った。
 
 
その時の爽快感や、もー 一生忘れられない位気持ちよかった!!!
 
さいこーーーにすーーーっきりした!!
 
洗うという行為は気持ちをリセットする事にもつながるんだなって実感した。
 
4、5日経つと、じょじょに電気が復旧しだした。家の地域は一番遅くて、でも電気が来た時はホントに本当に皆でわーー!!よかったー!!!って歓声をあげました。
 
電気でこんなに気持ちが明るくなるなんて知らなかった。
電気って凄い心まで明るくするんだもの!
 
とても幸せだった。
 
電気がついてコタツをつけて皆でテレビを見た。それまで断片的にしか見れなかった地震の映像が目を疑うように流れてきた。
 
あぁこれは大変なことになった。
 
茨城も報道されていないが、大変な被害だ。住友金属の工場は炎上するし、日立港で日産の高級外車(輸出用)が津波の被害にあって炎上して白く焼け焦げているは、地面は割れ隆起するは陥没するは、東海原発津波の被害がでるは、大洗では巨大な渦が出現するは、家の近くの海もそう。
 
各地にいる友達が益々心配になった。
 
最初の頃は、まず生きていくこと衣食住最低限の事を確保するので必死でそれから電気が来てほっとしたのか、熱をだした。
 
こんな時に熱を出して寝込んだ。こんな時に熱だしてごめんって思った。でも皆、
さとこ頑張ってたから、疲れが出たんでしょう。寝てな、皆がそう言ってくれた。
 
そして15日福島原発で大変な事が起こった。
 
その日の朝、友人からメールが来た。外出を避けてマスクをするようにと。
 
そしてその日福島では大変な事がおこりました。
福島は地震の前日にアクアマリンふくしまに行こうとしていたくらい遠足気分で行く大好きな土地。
 
だからよけいに心配だった。人事ではない。そんな遠さじゃない。原発には感謝している。だってそのおかげでこうして暮らしているんだもの。地元の原発で働いている先輩達も沢山いる。
 
だけどもうこりごり。あぁまたこれで、食べ物だけでなく、人の差別も始まる。
 
大変な事が起こった。
 
そして、2,3日外に出ないようにして隙間には目張りをして、少しでも外の空気を吸わないようにしました。